2017年8月に公開されたアニメ「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」をDVDで観ました。
劇場公開当時はタイトルは目にしていており、気になっていたんですが「メインキャラの声優に俳優起用」「酷評されており、観客動員数も低迷」という情報を目にして完全にスルーしましたね。
タイトルの「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」については、夏目漱石の著作中に出てきたセリフだと思います。
どの著作か忘れてしまったのですが、「花火をいい角度で見る」という事に対して、球状に爆発するんだからどこから見ても同じ、と無知を揶揄するくだりだったはず。
夏目漱石は好きだったのでタイトルに惹かれはしていたものの、そのまま興味を失っていたんですが、レンタル屋に並んでいたので何となく借りてみました。
もうソフト化もされている作品ですので、ネタバレ全開で感想&考察を書きたいと思います。
1.7億回再生されているエンディングテーマのMV。再生回数すごくない?
酷評されており、レビュー評価も低いが、普通に良作アニメ
最初に結論から言ってしまうと、この作品、一点にだけ目をつぶれば、かなりの傑作だと思います。
後から知ったんですが、原作は1993年に公開された実写ドラマらしいですね。
私はこの実写の方は観ておりませんし、存在じたい知りませんでした。
原作を全く知らない人間が1アニメ作品として観た感想としては「酷評されるほど悪くない、むしろ全然良く出来たアニメ」というものでした。
制作がシャフトというのも観てから知ったんですが、キャラクター作画、背景、音楽に関しては非常にクオリティが高く、主役2人が棒読みの大根俳優で全て台無しにしていますが、それを差し引くと映像面はかなり良いです。
青春ドラマをここまで綺麗な映像で描いたアニメは、私はちょっと思い当たりません。
最初に書いた「一点だけ目をつぶれば」の一点とは主役2人にあてがった声で、声優ではなく、へったクソな俳優を使った事です。
脚本については、原作を知らない身としては「あんなもんじゃないの」というのが正直な感想です。
確かにいろいろ分かりづらい部分が多く、すっきりしないストーリーなんですが、無理に論理的に筋を理解する必要は別に無いたぐいの、ファンタジーだと思います。
ですので要はテーマと雰囲気が掴めればいいんでしょ?と思うんですが、原作に思い入れがある人にとってはきっと「原作はもっとイイのに、なんでこんな駄作にしたんだ」という言い分があるんでしょうね。
そういう気持ちも分かります(私にとっての「イリヤの空、UFOの夏」とかね)ので、きっと厳しい評価をしているのはきっと原作ファンなのではないでしょうか。
ネタバレ全開・最後までちゃんとあらすじ
港町の茂下市に住む島田典道は、同級生の及川なずなに淡い恋心を抱いていた。
親友の安曇裕介もなずなに好意を抱いているが、告白できないでいる。
夏休みの登校日、典道、裕介、なずなは学校のプールで賭け競泳をする。
1位はなずなで、なずなは2位の裕介を賭けの結果として花火大会に誘う。
なずなは実は母親の再婚に伴い、夏休み中に引っ越す事が決まっていた。
登校日には担任にその旨を伝えに来たのだ。
クラスでは典道、裕介の友達が「打ち上げ花火を横から見たら丸いのか、平べったいのか」という話題で盛り上がっている。
なずなとの花火大会の約束をわざと破り、友達と灯台へ向かう裕介。
なずなは典道、裕介のうち競泳で勝った方を花火大会に誘い、その実、2人で家出をするつもりだった。
裕介にすっぽかされ、母親に見つかって泣きながら連れ戻されるなずなを前に、何もできない典道。
同じようにその様を目撃しながら、とぼけて悪びれない裕介に典道は殴りかかり、なずなが落とした「玉」を投げつける。
「もしも自分が競泳に勝っていたら」
その瞬間、典道の意識は競泳の直前に戻っていた。
今度の競泳では典道は裕介に勝ち、なずなは典道を誘う。
なずなが家出を望んでいる事を知っている典道は、裕介達を振り切ってなずなと駅へ向かう。
ついに電車が来た時、なずなの母親と再婚相手の新しい父親に追いつかれ、なずなは連れ戻されてしまう。
なずなの義理の父親に殴り倒され、典道は失意の内に、合流した裕介達と灯台へ行く。
そこで見た打ち上げ花火は、現実にはありえない水平に弾ける軌道を描いていた。
典道は再度願う「もしもなずなと電車に乗れていたら」
世界は再び変化を見せ、典道の意識はなずなが連れ戻される直前の駅に戻る。
父親の腕をかいくぐり、典道となずなは間一髪電車に乗る事に成功する。
しかし、踏み切り待ちをしている裕介達に2人で電車に乗っているところを目撃され、彼らと、車で追いすがるなずなの両親に追われることになる。
典道となずなは「灯台前」駅で飛び降り、灯台の上まで逃げる。
典道にとっては2回目の打ち上げ花火はやはり、花びらのような不可思議な模様で弾けていた。
裕介に追いつかれ、海へ落下しながら典道は三度「玉」を投げる。
「もしも裕介達に追いつかれなかったら、なずなと2人きりになれたんだろうか」
次の世界では、踏み切りで裕介達に見つからず、両親の車にも追いつかれずに電車はあるはずのない海の上のレールをひた走る。
2人を阻むものはもういない、駆け落ちは今度こそ成功するかに思えた。
しかし、なずなは見てしまった。追いすがる車中で母親が泣き崩れているのを。
なずなは言う「こんな事しても無理だってのは分かってる。町を出なければいけないとしても、今日だけは典道と一緒にいたい。」
電車が停まった駅は出発点と同じ「茂下」駅。町からは出られず、結局元に戻ってきた。
町は全体が透明なドームに覆われており、典道となずなの行く先には誰一人いない。
最後に典道が望んだとおり、2人きりになれたのだ。
「離れ離れになるぐらいなら、このおかしな世界でお前とずっといたい」そう告げる典道になずなは首を縦に振らない。
ただ「泳ごう」と典道を海へ誘う。
海の中からなずなが典道に尋ねる「次会えるの、いつかな」
その時浜辺では、いつの間にか尺玉のような大きさになっている「玉」を花火職人が間違えて打ち上げてしまう。
「玉」は空中で膨張し、光の粒となって爆発・四散する。
ガラスのような透明な欠片が雨あられと降り注ぐ、その欠片一つ一つに、典道はなずなと結ばれる未来の幻影をいくつも見ることができた。
なずなの目には、その欠片の中に彼女が夢見る典道との未来が写っている。
そして、灯台の上で「玉」の欠片を見ている裕介には、彼がなずなと結ばれる未来が見えていた。
玉の欠片が降り終わるに従って、町を覆っていたドームも散り散りに霧散していく。
海に飛び込んだ典道と抱き合うなずなは再度尋ねる「次に会えるの、どんな世界かな」
場面は変わって新学期。
出欠を取る担任。及川なずなの席は空で、名前も呼ばれない。
典道の席もまた空で、担任が何度呼んでも返事が返ってくる事は無かった。
考察・結局あの「玉」って何?
- 使用者の願望を一時的に具現化して体験させる事ができる未来ガジェット
- ただの綺麗なガラス玉で、何の機能も無い
このどちらかでしょう。
ほぼ1だと思っていますが、後で述べる理由によって2の可能性もあります。
使用者の願望を一時的に具現化して体験させる事ができる未来ガジェット
典道の体験しているのがただのタイムリープでは無い事は、最初に「玉」の機能を使った時に既にほのめかされています。
最初に「玉」の機能を使った時、典道は結局夜の灯台の上で友達との約束通り花火を見る事になるんですが、この時打ちあがった花火は現実にはありえない、水平に火花が拡散する軌道を描いていました。
こんな世界はありえない、納得できない、と思った典道は再度玉の力を使い、駅でなずなが連れ戻され「ない」世界を望み、具現化させます。
この2回目の「if世界」では、典道となずなは大人たちを振り切って電車に乗る事ができますが、途中の踏み切りで佑介たちに見られてしまい、なずなの母親と義理の父親も車で次の停車駅まで追いかけてきます。
2人は「灯台前」駅で降りて海へ向かって逃げ、最後はやはり灯台の上で打ち上げ花火を見る事になりますが、今度もやはり、花火はまるで花びらのような形に広がり、典道は「この世界はやっぱりおかしい」と思います。
なずなは花火がどんな形だろうが関係ない、典道と一緒にいたいと言いますが、佑介やなずなの両親が灯台まで追いかけてきて、2人は海へ落ち、落ちる最中に典道は3回目の「玉」の力を使います。
3回目に典道が願ったのは「もしも佑介達に見つからなかったら、なずなと2人きりになれたんだろうか」というもので、実際に今度は彼らに見つからずにやり過ごす事ができました。
ここで、なずなの両親は線路に並走して車で追いかけてきており、なずなは「どうしよう、次の駅で捕まる」と不安がるのですが、典道は自身を持って「大丈夫、そうはならない」と断言します。
その言葉通り、電車は現実世界には存在しない側線へ分岐し、海の上のレールを走るコースを辿ります。
ここで決定的になりますが、「玉」は「こうなって欲しい」という使用者の願望を顕わした「if世界」を作っています。
3回目に典道が願ったのは「誰にも追いつかれず、なずなと2人きりになる」世界なので、海の上をひた走るというありえない側線が現れ、電車がそちらへ分岐したんですね。
典道は遅くともこの時点までには「玉」の機能を理解しているという事になります。
ただの綺麗なガラス玉で、何の機能も無い。タイムリープは全て典道の脳内妄想。
なんでこんな解釈が出てくるかと言うと、なずなが典道に身の上話をした際に、海難事故にあったらしいなずなの父親の水死体がこの「玉」を持っているシーンが挿入されているからです。
つまりこの「玉」は、なずなの父親の形見か、船員っぽい格好なので娘への外国みやげだったのではないでしょうか。
「玉」自体は確かに実在していて、8月1日に偶然なずなの手に渡りましたが、ただの綺麗なガラス球で、何の特殊な力も無い、という解釈です。
では典道が体験した一連の「if世界」は一体なんなのか?
「玉」の機能が仮に「使用者の望んだ世界を一時の間具現化して、体験させてくれる」というものだとすると、典道の願望によってのみ、8月1日の茂下市を3回作り変えている事になります。
こういう設定の場合、それらの現象は全て典道の頭の中でしか起きていない、つまり脳内妄想である、としても成り立ちます。
つまり玉の力なんてものは無く、全て典道が最初に「佑介に逃げられ、母親に連れ戻されるなずなを前に呆然と立ち尽くすしかなかった情けない自分に対する後悔の念」を抱いた時点から、彼の脳内で起きた妄想シミュレーションであるという解釈ですね。
「玉」の力が実在しようがしまいが、実はどうでもいい
「玉」の正体が何なのか、確かにすっきりしないので気持ち悪いのですが、お話のテーマからすると実はコレ、瑣末な事です。
何故かと言うと「もし~だったら」という願望から「if世界」を典道は3回体験するんですが、最終的に「起きてしまった過去は一切変わっていない現実世界」に戻ってきているからです。
映像的には、何故か尺玉大になった「玉」を酔っ払った花火職人が花火と間違えて打ち上げ、「玉」が爆発四散したから、のように描かれています。
「玉」が壊れると同時に町を覆っていたドームも消えていき、その世界に打ち上がる、典道にとっては3回目の花火は、ちゃんと現実と同じ丸い形に拡散しています。
そもそも「玉」が爆発して消え去る事自体、典道(あるいは彼となずな)が「現実に戻る」事を望んだ結果だと思います。
というのも、3回目の「if世界」で結局電車が「茂下」駅に戻って来た事。
典道が「おかしな世界でも、なずなとずっと一緒にいたい」とようやく告白したところで、なずなの表情はこうなんですね。
とてもいい絵じゃないですか。
この「if世界」に存在するなずなが、典道のただの妄想でないとしたら、彼女の表情の意味するものは一つ「私も同じ想いだけど、それじゃ一緒に生きていく事にはならない」でしょう。
なずなと典道では、やはり男女の差と言うべきか、なずなの方が大人で現実的です。
なずなが最初、典道と一緒に逃げて欲しかったのは事実ですが、最終的にはそれじゃダメだと言うのを理解している。
どのような想いがあって町を離れるのを拒否していたのか、3回目の「if世界」で「玉」が砕けた辺りでようやくなずなの気持ちがはっきり描かれているように思いました。
結局、典道にとっては後悔の元となった全ての現実は何も変わらず、それに対して彼はこれからどうするのか?というのが本作のラストシーンであり、テーマですので、「玉」の力が実在しようがしまいが、それは設定上の話であって瑣末事だと言えましょう。
考察・ラストシーンの謎。結局2人はどうなったの?
典道が3回目の「if世界」を体験した後、シーンは新学期最初の日まで飛びます。
担任の三浦先生が出欠を取りますが、当然及川なずなはもういませんのでスキップです。
ところがここで、島田典道の姿もありません。
憮然とした表情の佑介。
返事がないので、何度か繰り返し典道の名前を呼ぶ三浦先生。
ここで映画は終わります。
私の初見での感想は「あぁ2人は駆け落ちしたんだ。」というハッピーエンドという解釈でした。
要は典道が実際に行動を起こして、なずなを助けたんだろうな、と思ったわけです。
が、エンドロールの途中で「ん?駆け落ち?結局あの謎空間はどうなったの?」とモヤモヤしだしたんですね。
映画を1回観ただけでは結局何がどうなったのかうまく説明できない。
人によっては、あのラストシーンは「観る人がいかようにも解釈できる」と考えているようです。
典道は「玉」の力による「if世界」で永遠に続く登校日(なずなとの逃避行)に囚われている、という解釈をどこかで見て「ああそういう解釈をする人もいるのね」と面白かったですね。
ですが本作、そんな「観る人によってハッピーともバッドとも解釈できる結末」ではありません。
というのは私は映画を観た後、コミカライズ版を読んだんですが、こちらにははっきりと結末が描かれているんですね。
新学期が空けた日、典道はなずなに会いに行くために町を出る、コミック版はそこで終わっています。
これは非常にすっきりしたエンディングで、最初に感じたもやもやが綺麗に晴れます。
及川なずなが夏休み中に引っ越す事は、担任はそもそも8月1日に知っているので、席に誰もおらず、出欠をスキップするのは当然です。
典道が8月1日以降に何とかしてなずなと駆け落ちしたとしたら、警察沙汰になっているだろうから平然と出欠なんて取らないでしょう。
「玉」の力による「if世界」が仮に実在するとして、永遠に続く8月1日に典道が逃げ込んだとしたら、これもやっぱり警察沙汰です。
ですので、なずな、典道は、少なくとも夏休みが終わるまでは普通に家族と一緒にいたはずです。
さらに、一緒に登校していたし親友のように見えた裕介が、後ろの席の典道が新学期にいない事に対して無反応且つ、憮然とした態度でいるのをわざわざ映している演出。
これらを合わせると考えられるストーリーは、典道はまず、なずなへの想いを裕介に告げ、同時に、新学期になったらなずなに会いに行く、という決心を伝えたんでしょう。
裕介にはそんな勇気がなく、1度なずなを裏切ったという負い目もあり、自分にできない事を実行している典道への嫉妬からこのような表情になっている。
典道が新学期になずなの所へ行って、それから何をどうするつもりなのかちょっと想像がつきませんが、きっと彼は夏休み中の残りの期間で何らかの答えを出したんでしょうね。
「こうなってほしいという未来を夢想するなら、そのために行動せよ」というお話
妄想と言ってしまうと下世話な感じがしますが、夢や願望と言い換えると何故か綺麗に聞こえる不思議。
劇中で典道はなずなを好いているのに、祐介のようにはっきりそれを口にする事ができず、煮え切らない態度をとっていました。
プールでの競泳の際も、なずなに気をとられて不甲斐なく裕介に負け、祐介に約束をすっぽかされたなずなが母親に連れ戻される際にも呆然と立ち尽くすだけで何もできませんでした。
典道はここで「もし自分が競泳で勝っていたら。もしなずなを助けられていたら。」という後悔の念から「なずなも本当は自分の事が好きで、2人で逃避行が成功し、最後は結ばれる」という、まずは逃避願望を繰り広げたんじゃないでしょうか。
劇中ではヒロインであるなずなの気持ちが表面上しか描かれておらず、何故家出したいのか、典道や祐介に対する気持ちや彼らとの関係性といった「背景」がイマイチ分かりません。
つまり、なずなというキャラクターについて観客からすると謎が多すぎるように感じます。
ですがこれは別に演出ミスでもなんでもなく、そもそもお話が典道の主観で描かれているからで、あくまで主役は典道だからです。
この映画は終始、典道以外の視点を最低限に絞っています。
典道の視点からすると、なずなの本心や行動理由は分からなくて当然だし、思春期に思いを寄せている異性については、他の男子同様、表面上の事以外何も知りはしません。
友達の祐介が「なずなに告りたいけど、断られたら恥ずかしいからやらない」という事を言いますが、結局、相手の気持ちなんてこちらからアプローチするか、相手からされるかがのいずれかが無ければ分らないのが当たり前です。
つまりこの作品のテーマは、自分が行動を起こさない事で夢見ていた未来が永遠に失われて後悔するぐらいなら、結果を恐れず行動せよ、というものだと思います。
もっと砕けて言うと、「あなたの好きなあの子、何もしなかったら手の届かないところに行っちゃって一生後悔するよ」ってところでしょうか。
どうでしょう?そんなに難解でも破綻した脚本でも無いと思うんですが。
私は3回目の「if世界」でのキスシーンとか普通に感動して泣けましたけどね。
打ち上げ花火の意味するもの
これは普通に、人の夢、願望とかでしょうね。
あと「人生そのもの」も表していると思われます。
打ち上げ花火はそもそも古来より、「夜空いっぱいに綺麗に広がるが、一瞬で消えてしまう儚いもの」というモチーフです。
なので、3回目の「if世界」で「玉」が尺玉と間違えられて打ち上げられ、まるで花火のように弾けた時に、降り注ぐ無数の欠片の中に茂下市民全員であろう人々の思い描く夢が見えたのは、まさに人の夢と書いて儚い、という意味でしょう。
人生もそうで、一瞬で消えてしまう人間の一生だからこそ、後悔しないように行動せよ、という事ですね。
シャフト的オサレ演出がマジオサレ
オサレ過ぎてひねり過ぎている感すらあります。
1回目の電車での逃避行中、なずなが逃避行の先での生活について「芸能界に入るとか?」というセリフの流れから松田聖子の「瑠璃色の地球」を歌うシーンがあります。
この時、なずなの衣装や周りの風景が「シンデレラ」風にイリュージョンします。
なずなはお姫様みたいな格好、典道は王子様。魔法の馬車も出てきます。
「シンデレラ」はご存知の通り、義理の母親、姉妹に虐められている薄幸の美少女が、一夜限りの魔法で綺麗に着飾り、舞踏会に出ることができます。
そこで王子様に見初められるも魔法のタイムリミットである午前零時が来て慌てて逃げ帰り、その時に落としたガラスの靴がキーとなって最後王子様と結ばれる、というお話ですね。
このシーンでは謎のイリュージョンパワーでシンデレラ状態になるんですが「ガラスの靴」の代わりに例の「ガラス玉」が使われます。
ここで、なずなが「ガラス玉」を落とします。
この「玉」が落ちていく間はイリュージョンが続き、「玉」が落下した瞬間に、なずなが落下していくイメージが重なり、イリュージョンが解けます。
これは「ガラスの靴を落とす」「魔法が解ける」というシャフト流演出ですね。
(ちなみに、漫画版ではまんま「ガラスの靴」が1コマ描かれています。これはこれで分かりやすいですし、静止画の漫画ではまっとうな判断だと思います。)
美少女が落下する演出はシャフトの十八番なんでしょうか。
「人間が自由落下する」というのは、重力に身を任せる=運命に身をゆだねる、という意味ですね。
身を投げ出したら最後、自分では何も出来なくなりますから。
下で誰かが受け止めてくれたらハッピーエンド。
誰も受け止めてくれなかったらバッドエンド。
という事です。
化物語のガハラさんもそんな気持ちだったんじゃないでしょうか。
もう一点、このシンデレライリュージョンの開始、終了時になんか青いビラビラしたものがスターシップトルーパーに出てくるバグのごとく大量に飛んできます。
コレ、最初見たときは「ん?なんで蝶?青い鳥じゃなくて?」と頭に?が浮かんだんですが、よくよく見るとやっぱり「青い鳥」です。
なずなが落下するイメージで、くるくる回るシャボン玉みたいな青い玉の中に鳥がちゃんと描かれていますね。
「青い鳥」はこれも有名なメーテルリンクの「青い鳥」で「幸せを探し求める旅=人生」というモチーフの代表格で、なずなの「ここから逃げ出して幸せになりたい」という思いを表しているのでしょう。
もうちょっと分かりやすく「鳥」のグラフィックにしてくれたらいいのにとも思います。
ちなみに、なずな役が歌う「瑠璃色の地球」は普通に下手です。
vtuberの方がよっぽど歌も演技も上手いですね。
酷評されているのも分からんでもない
絵、音楽は良いのに、主役2人の声が下手な俳優起用
映像ソフトとしての価値がゼロなのは100%これが原因。
主役2人にちゃんとした声優をアサインしてさえいれば私はBlu-rayを買っていたと思います。
ヒロインの及川なずな役は滑舌が悪く、緊迫した場面でいちいちセリフが絵とずれて聴こえます。しかも棒読み。
この子は母親の再婚を機に引っ越す事が決まり、それが嫌で家出を試みるんですが、親に見つかって捕まるシーンが「if世界」のせいで何回か発生します。
この都度「やーめーてー。はーなーしーてー。」と学芸会レベルの間の抜けた演技でものすごく萎えました。
他のシーンについてもセリフは極力少なめにしたんでしょうが、それだけに重要なセリフしか残っていません。
ラストシーンも、ちゃんとした声優ならもっと心を込めた演技をしたはずが、全く感情がこもっておらず、いいセリフのはずなのに淡々としているんですよ。
本作でのなずなが「恋する少女」に見えず「不思議ちゃん」になっているのはこの役者のせいだと言っても過言ではありません。
ヒロインの相手役というか主役の島田典道も酷い。
童顔の少年なのに墓石の下から聞こえて来るようなクッソ低音で、こちらも滑舌が悪い上、いちいちセリフをゴニョゴニョと口ごもる、まるで「裸の大将」の物真似でもしているかのような演技。
このド下手2人を主役に据えた以外、周りのキャラクター達は全てちゃんとベテランの売れっ子声優を使っているので、ますますもって残念感が半端無いです。
劇場アニメの声優にクソ下手な俳優を使うのは、スポンサー、広告代理店のいずれかあるいは両方が「こいつらを使わないと宣伝できない、客が入らない」と言ってくるとか、俳優事務所との政治的絡み、要は良い作品を作るのとは全く関係無い誰かの利害関係から要求してくるからです。
アニメーション制作会社はスポンサーには一切逆らえないので、これはクリエイター側の責任では無いでしょう。
その結果、客は入らないわ、円盤は売れないわでは本末転倒でしょうけどね。
主人公達の年齢設定を明確に描かない謎演出
主人公達が「高校生」にしか見えません。
観終って調べてからようやく彼らが「中学生」という設定だと知りました。
よくよく見ると渡辺明夫氏のデザインはちゃんと「中学生」に見えるようになっている(氏のデザインする高校生にしては等身も低いし、体つきも幼い)んですが、劇中では氏のデザインよりも明らかに大人びて描かれています。
こういうのは、1カットでも彼らが通っている学校の「校門」の表札「●●中学校」を映せばそれで事足りるんですが、それが無いという残念な演出と、年齢的に微妙なキャラクター作画のせいで、初見では主人公達を完全に高校生だと思って見ていました。
本作では下世話な下ネタを連発する男子たちや、その割りにヒロインのなずなに花火大会に誘われた途端に腰が引けて逃げようとするといった行動が、絵面から誤解してしまう「高校生」にしてはあまりに幼稚で、終始違和感があります。
それも物語の舞台が「茂下(もしも=if)市」とか言う「それは流石にどうよ」と突っ込みを入れざるを得ない短絡的な名前の、なんか観光地並に美しい島、要は都会の現実感が全く無いロケーションなので「田舎の純朴な高校生はこんなもんって事?」と誤解したまま観続けてしまいました。
劇中で彼らが中学生だと仄めかしているのは、典道が、入学式の写真に写っているなずなをルーペで拡大して眺めているシーンのほんの一瞬で、後ろの垂れ幕に「●●中学校入学式」と書かれていました。
こんなのは初見では100%見過しますし、仮に気付いたとしても「ん?なずなと同じ中学校だったって説明カット?」ぐらいにしか思えません。
もう1箇所、なずなと典道が駅で電車を待っているシーンで、なずなが「東京に行って働こう」と言うんですが、その時に「16歳って歳ごまかして」というセリフがあります。
これを最初聞いた時にも「ごまかして16歳って事は今何才なんだ?」とワケが分からなくなりました。
「え、アンタ17ぐらいじゃないの?」と頭に?マークが乱舞しましたね。
ここも「『高校生だ』って嘘ついて」ってセリフにすれば「え、まさか中学生なのか!」とびっくりして解決だったのに、こういう歯切れの悪い脚本ってのが酷評される原因の一端なんでしょう。
学校内のシーンもそれなりの尺があり、そもそも「夏休み中の登校日」の話なんだから、担任の女教師に「中学●年生にもなってそんなくだらない事しないの!(CV花澤香奈)」とかひとこと言わせれば良いだけなのに、そういうの一切無しで、どーでもいい登校シーンや無意味な会話に時間を割くばかりでしたね。
脚本、演出で「彼らは中学●年生です」と冒頭にはっきり言う事、これさえやっていればこの作品の評価は少しでも良い方に変わったはずです。
中学生と高校生の違いと言うのはお話の設定としては決して小さくありません。
この両者では社会に対して自力で行動を起こす際のハードルの高さが明確に違うからです。
要は「中学生男子なら仕方ないよね」と思えるシーンが初見だと「高校生の男がとる態度か!」になっちゃってるのがすごくマイナスって事ですね。
不満点もあるが、ぜひ観て欲しい傑作
不満点と言っても本当に上に挙げた2点ぐらいです。
・・・とはいっても主役2人の声が致命的なんですが。
繰り返しになりますが、作画は本当に綺麗で、音楽も素晴らしく、ストーリーも良いので食わず嫌いで観ていない方はぜひ観てあげて欲しいですね。
コミカライズの方も、絵が非常に巧く、文字でキャラクターの気持ちを書ける分、話も映画より数倍分かりやすく構成されていますので、映画は気に入ったんだけどちょいちょい意味不明なところあるなーって方は、絶対に読む事をおススメします。