「86ーエイティシックスー」とは安里アサト氏原作のライトノベルで、2021年4月にTVアニメ化されました。
2021年10月から2クール目の放送も開始されています。
私は原作未読、TVアニメの1クール目も放映時には見ていませんでした。
1クール目、2クール目ともにAmazon Prime Videoの見放題対象になっているので試しに1話を視聴したところ、非常に面白く、自分の好みに合っていたので予想外にハマってしまいました。
どれぐらいハマったかと言うと、一気にシーズン1を全話観た上で、これはPCモニターなんかで観るモンじゃないぞとBlu-rayを全巻購入し、エンディングとサントラのCDも同時に購入したぐらいです。
最近は殆どアニメを観なくなり、理由は余りに下らない作品が多くて時間の無駄に感じるようになったからなんですが、86はちょっと一線を画す感じですね。
という事で全力でおススメしてみたいと思います。
ざっくり内容紹介
ジャンルとしては第二次世界大戦をモデルにした「架空戦記ライトノベル」です。
ヨーロッパをモデルにした大陸で「ギアーデ帝国」という国が周辺国に対して武力侵攻を開始します。
とは言ってもギアーデ帝国の戦力は「完全自律無人戦闘機械(レギオン)」による地上部隊のみで、敵兵としての帝国軍人は一切登場しません。
背中に大砲を積んだ甲虫っぽい形状の多脚ロボットが群れをなして押し寄せて来るだけです。
帝国側の軍人が一切存在しないのは何故かというと、実はレギオンの暴走により帝国じたい既に壊滅しているという事が分かっています。
物語はギアーデ帝国の西方に位置する「サンマグノリア共和国」の女性士官であるヴラディミレーナ・ミリーゼ少佐(16歳)と、(共和国から見て)東部戦線の最前線でレギオンと戦っている部隊の少年兵との間で展開されます。
作品の特徴は何と言ってもタイトルである86(エイティシックス)で、これは何かというとサンマグノリア共和国内でアルバと呼ばれる白銀色の髪と瞳を持つ社会的優位人種が、帝国に侵攻されて劣勢に陥った時点でアルバ以外の全ての人種に対する迫害政策を実施し、86区というゲットーに隔離して彼らを86という蔑称で呼んでいる、という設定です。
86区というのは、サンマグノリア共和国が自国の周りに築いた城塞壁(グラン・ミュール)の「外」に位置する区で、共和国のアルバはここに強制収容所を建設し、自分達以外の人種を全てこの強制収容所に隔離しています。
サンマグノリア共和国内では、86達は「人型の豚」とまで言われており、人間と見なされていません。
そして86の一部は収容所から兵士として徴兵され、共和国製の「ジャガーノート」というこれも大砲を積んだ甲虫っぽい多脚戦車に搭乗させられ、国境を越えて共和国に侵攻して来る帝国のレギオン部隊と強制的に戦わされています。
しかしながらジャガーノートについては国民に対して「無人兵器である」と喧伝されています。
何故ならアルバの基準では86は人間では無いから。
レギオンとの戦闘でジャガーノートが撃破され、操縦者が死亡しても86は人間では無いので戦死者は常にゼロという扱いで国民には報道されています。
ヒロインであり、アルバであるヴラディミレーナ・ミリーゼ少佐(以降レーナ)はエリート士官且つ血統的にもかなり上流で、軍属なので当然「ジャガーノートは無人兵器ではなく、中に86の少年兵が搭乗して日々の戦闘で戦死している」事を知っています。
殆どのアルバは86を徹底的に差別し、心底「86は人間では無い」と思っているので、戦争の真実を知っていようが知っていまいが大して気にしません。
もちろんアルバ全員がそのような考えという訳ではなく、幼少時に戦場で86に命を救われたという明確な理由があるレーナ少佐を筆頭に、まともな倫理観を持つアルバも少数ながら存在しています。
強制収容所に隔離した86から少年兵を徴兵し、ショボい戦車に乗せて帝国の無人兵器と戦わせているサンマグノリア共和国の軍人は何をしているかと言うと、城塞壁の内側のさらに最も内側から前線の部隊を「指揮管制」しています。
作中ではこの職位を「ハンドラー」と呼んでいますが、何をしているのかはよく分かりません。
アニメを観る限り何かオペレーターっぽいというか、敵のレギオン部隊や自分が担当している部隊が表示されているレーダー画面を見て指示を出していますね。
現実の軍隊で言うと司令部に一人だけ少将とか大佐とかの高級士官がいて、部隊に俯瞰的な情報や戦術指示を与えているイメージでしょうか。
レギオンとの戦闘中も、それ以外でも、ハンドラーと86の少年兵たちはパラレイドと呼ばれる技術で通信しており、このパラレイドによるレーナと86の少年兵部隊(スピアヘッド戦隊)の隊長であるシンエイ・ノウゼン(以降シン)との交流が物語の核の一つとなっています。
この「決して直接会う事が無いボーイミーツガール」という舞台設定もTVアニメ化されるようなライトノベルではなかなか珍しいんじゃないでしょうか。
パラレイドというのは五感の一部を他人と共有する事ができるテレパシー的な謎技術です。
作中では国の中心部から前線の兵士達と同時複数通話できるなんかすごいボイスチャットと言った描かれ方をしていますが、実はこのパラレイドという技術の誕生秘話じたい伏線の一部だったりします。
原作者のペンネームが「88」
最初私は原作者の名前を安里アサト(あんりあさと?)と読んでいたのですが、アサト・アサトというのが正しい読み方だそうです。
ドイツ軍好きの人間からすると、これを聞いただけで「あーなるほど」と勝手に納得してしまいます。
ミリヲタにとってドイツ語でアハト・アハトと言えば「88mm Flak」を意味します。
88mm FlaKは第二次大戦で大活躍した対空高射砲の傑作で、88mm砲は後にティーガー戦車の主砲に採用されていますし、この高射砲を水平に向けてベルリンの対地防御に使われたりもしました。
88mm Flakは第二次大戦における第三帝国の軍事技術力の圧倒的優位性を示すシンボルの一つです。
そういう理解の上で考えると、タイトルである「86」の意味が何となく見えてきます。
サンマグノリア共和国は1区~85区までがグラン・ミュールの内側で、1区が最も上流階級の人間が住む地域となっています。
最も外壁から遠いのが上流階級が住む1区で、壁に近づくにつれ区番号が増え、85区を境に壁の外の強制収容所がある地域が86区です。
サンマグノリア共和国から見れば、86区のさらに外側である戦場は87区、そのさらに先のギアーデ帝国は88区という事になります。
また、サンマグノリア共和国は明らかにドイツではなくフランスをモデルにしています。
区が放射状に配置されていくというイメージもパリを基にしています。
それにしても86区って多すぎやしないか、なんで86なんだろう、国全体を区にしたらそんなもん?と最初は思っていましたが、原作者の名前の読み方が88なら納得です。
88mm Flakをペンネームにする原作者はサンマグノリア共和国(フランス)は大嫌いで、自身は帝国(ドイツ)側の人間って事ですね。
映像ならではの演出が非常に丁寧
小説では心理描写や背景説明を文章で書くことができますが、映像ではそうはいかないので画で見せる必要があります。
ここに演出の余地が生まれるのですが、優れた映像化というのはこの演出が素晴らしいです。
ここからはシーズン1のネタバレが結構含まれてしまいますが、幾つか印象的だった映像演出を紹介したいと思います。
「線路」が象徴するもの
これは1話のアバン、まさにアニメの開始直後の画面なんですが、戦闘へ向かうジャガーノート視点のカメラです。
戦場は荒れ果てた市街跡で、画面中央に真っすぐ線路のレールが描かれています。
このシーンでは(レーナとは別の)男ハンドラーの狂ったような嘲笑のセリフが聴こえるのですが、ここでこのレールが意味するのは「視点の主が死地へと追い立てられている」事で、画面の疾走感と共にそれが何となく伝わってきます。
86のアニメ版ではこのレールが何度も表現を変えて登場しますが、コレすごく重要なモチーフです。
次はこの画。
これも1話で、86側の主人公であるシンが所属するスピアヘッド戦隊の宿舎がある場所を映しているカットです。
中央右側にチラっと見える倉庫のようなものがスピアヘッド戦隊所属のジャガーノートの格納庫で、樹に隠れて殆ど見えませんが、隣接する建物が兵舎です。
ロケーションを説明する一発目の画で、シン達がいる格納庫や兵舎を映すのではなく、まず線路をデカデカと映しています。
この地平線へ向かって伸びていく線路、という構図じたいは映像作品では珍しくありません。
珍しくはありませんが、86という作品でこの画を見せる意図は明らかで、コレです。
これはアウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ)への引込み線の写真で、線路が伸びている門の先が収容所です。
この写真と構図は「死の門」として非常に有名で、この引込み線の先は「死という終着点」へ繋がっている、という事です。
アウシュビッツを描いた映画では門の内側、外側とアングルを変えつつも、必ずこの「死の門」へユダヤ人を満載した列車が到着するシーンが出て来ます。
86という作品中では「収容所」という言葉じたいはセリフとして頻繁に出て来ますが、その詳細が画にしろ言葉にしろ描かれる事がありません。
ラノベやTVアニメでは表現上の是非の問題が発生しそうですしね。
ですがこのレールの画を見せる事で、シン達がいるのはつまりそういう場所で、86とはそういう扱いを受けているんだという事を表現しています。
もちろんこの画を観て殆どの視聴者がピンとくるかというと全くそんな事は無いと思いますが、そこはそれ、作品とはそういう物で、人が作品を選ぶ事もあれば、逆もあるって事ですね。
先に書いたように、このレールは86アニメ版で何度も描かれる重要なモチーフです。
次はこのシーン。
スピアヘッド戦隊の生き残りがシンを含め5名にまで減り、いよいよ明日は最後の出撃となります。
その晩は雨が降っているので、隊員の一人が「せめて最後は晴れがいい」と自分達の顔を模したてるてる坊主を作ります。
ここから次のカットへクロスフェードします。
てるてる坊主の甲斐があり、朝になると雨が上がっています。
地平線に小さく見えるのはスピアヘッド戦隊最後の生存者5名が搭乗したジャガーノートで、最後の出撃へ出発している様子を描いています。
このシーン、雨上がりの湿った空気感も丁寧に描かれた、朝日が真正面から煌々と差しているものすごく美しい風景を5人が線路の先へ向かって進んでいく、という画になっている点が重要です。
これ、ストーリー的には「生還を許されない死への出撃」という絶望しかない状況なんですが、この画は明らかに「希望」へ向かって出発している描かれ方をしています。
まぁ、話の流れから最初にこのシーンを観た視聴者には「天国」へ向かう画のように見えてもおかしくないというか、それが普通の感性かと思いますが、この先の話からすると演出意図は明らかに「希望」への脱出ですね。
さらにこのシーン。
シーズン1の終盤(11話「行くよ」)で、シン達が最後の作戦に出撃した後にレーナがようやくスピアヘッド戦隊の隊舎を訪れる事ができた、というエピソードのラストです。
このカットがそのままエンディングの背景画となります。
アウシュビッツを描いた映画では、線路は「死への終着点=先が無い=逃げられない」という描かれ方をしますが、86アニメ版ではシーンによって大きく意味が変わります。
そもそも86アニメ版では線路のレールが途絶える事がありません。
つまり86アニメ版では、地平線へずっと伸びるレールは画の通り「先へ向かって進む」という意味を持つ事の方が多いです。
上のシーンがまさにそれで、ようやく戦地に降り立つことができたレーナが、シン達の向かった方向を真っすぐ見据えて自分も自らの道を先へ進もうと決意する象徴的な画になっています。
86アニメ版においてこのレールは、圧政者に死ぬ事を運命づけられた86達の「死の門」の暗喩であると同時に、自ら未来を切り拓いて先へ進もうという意思の象徴でもあります。
私はアニメ版のシーズン1を視聴した後、原作本の1巻だけ購入して読んだのですが、原作にはこのレールは一切登場しません。
こういう所が映像化の醍醐味ですね。
レーナの部屋の花瓶と「敬礼」
これは1話冒頭の、アバンが終わった後のレーナの初登場シーンです。
ヒロインのレーナの初登場シーンは、彼女が自室で起床する所から始まります。
広い部屋の中央に天蓋付きのベッド、大理石の床に高そうな家具と一見して上流階級の出自という事が分かります。
そして出窓に飾られている花瓶には白百合の花が活けてあります。
彼女は起床後、軍服に着替え、出窓に向かうと白百合の花に対して挙手敬礼をします。
ここで初めて彼女の全体の見た目と立ち居振る舞いがハッキリ描かれます。
このシーンを最初見た時は「え?何やってるの?」と思いました。
「なんで花に敬礼?」と。
話が進むと、彼女のこの行動の意味が分かります。
レーナは自分がハンドラーとして担当している部隊に戦死者が出た場合、この花瓶に供花して翌朝敬礼を行っているんですね。
洋画で葬式のシーンというと白百合を献花している画を良く見ると思いますが、白百合はキリスト教圏では死者に捧げるための花です。
つまりこれは彼女なりの葬送の儀式と言うわけです。
後の話数で語られますが、86はそもそも人間として認められていないので墓標も無ければ、当然葬式なんて挙げられる事もありません。
パラレイドという都合の良い超技術のおかげで直接顔を合わせる事が永久に無い、自分達が軽々しく死地に送っている86の少年兵に対し、彼女は同じ軍人、人間として敬意を払おうとしている、というのをこの画の演技で表現しています。
原作にはレーナ少佐のこの行動も全く描かれていませんので、アニメ版スタッフが必要だと判断して加えた演出なんでしょう。
また、レーナの自室シーンではこの花瓶が画面の中心にある事が非常に多い。
本来ならヒロインでありセリフを喋っているレーナを画面の中心に映すべきところ、レーナは画面の端にいて、その代わりに花瓶と花がど真ん中にいる、というシーンがあからさまに多い事に気付きます。
これは5月22日、レーナがスピアヘッド戦隊のハンドラーに着任した夜のシーンです。
新しく供えるための白百合も買ってきており、レーナが以前担当していた部隊では恒常的に戦死者が出ていた、86は作戦の度に何人も死ぬのが当たり前、という状況が伺えます。
ところが、スピアヘッド戦隊のハンドラーとして何度か作戦を共にした後のレーナの自室ではこうなっています。
花瓶は空のままで、先日買ってきた百合の花束が活けられることもなくそのまま放置されている上、しおれているのがハッキリ描かれています。
スピアヘッド戦隊というのはシンの「特殊能力」のおかげもあり、戦死者が他と比較して非常に少ない。
レーナもそれが嬉しくて「自分が着任してから部隊に戦死者が一人も出てない」と友人に語るシーンがあるぐらいです。
死者が出なければ花を活ける必要も、敬礼する必要も無いという事です。
この花瓶と供花の演出のニクいところは実はこの時点でレーナも他のアルバと同様、86を人間扱いしていない、という事を表現している点です。
「手向けの花」という意味ではちゃんと人間扱いしていますしレーナ自身もそのつもりなんですが、話数が進むとこの意味が分かります。
この後のエピソードでとうとうスピアヘッド戦隊にも戦死者が出ます。
戦死者が出ないのを「精鋭部隊だから」「自分の指揮管制が上手くいっている」と浮かれていたレーナは他の部隊を担当していた時と同じように「残念です」と「お悔やみを申し上げて」しまいます。
それを聞いたスピアヘッド戦隊の一員であるコードネーム・ラフィングフォックスが激高し「お前は他のアルバと何も変わらない。自分は安全な場所から同情しているだけで、それで俺たちを人間扱いしている聖女様だと思っている。俺たちの本名を知ろうとした事すら無いじゃないか。」と本音をぶつけられ、レーナは大きなショックを受けます。
レーナは以前担当していた部隊でも「86を人間扱いしている」かのような態度で部隊員に話しかけていますが、相手からは冷淡な嫌味めいた口調でしか応じられていません。
その理由はラフィングフォックスのセリフを聞けば明らかなんですが、レーナは言われるまでそれに気づいていない。
レーナにとっては、未来永劫相手の顔を見る事も無い、死んでも「花が朽ちた」程度に抽象化されてしまうのが86だったわけです。
他のアルバと同様に自分が一方的に生殺与奪を握っている相手である86、にその事実を突き付けられた彼女はショックを受け、自身の浅はかさに気付いて大きく凹みます。
これはレーナがスピアヘッド戦隊のハンドラーに着任してから初めて戦死者が出た次の日の朝です。
一輪だけ白百合が活けられており、レーナは今まで他の部隊での戦死者に対して行っていたように、この花に向かって敬礼します。
花に敬礼を捧げている時のレーナの表情が、このシーンで初めて描かれています。
目元だけですがレーナの表情を映す事で、このシーンが今までの敬礼とは違う意味を持っている事が分かります。
彼女が自分自身のやって来た事に対して思い返している、という表現になっています。
彼女はその後、ちゃんと自身の認識を改めてスピアヘッド戦隊の86達に謝罪し、パラレイドごしですが彼らの本名を全員分、自分の口で聞いて回ります。
そしてその夜以降の彼女の部屋はどうなったかというと、
机にはボードが置かれ、パラレイドでの会話を元に恐らくレーナが想像で描いた部隊員の似顔絵が貼り付けられています。
そして出窓の花瓶には、供花である白百合では無く普通の観賞用の花が活けられています。
その代わりに、花瓶の横のガラスケースにスピアヘッド戦隊の戦死者の顔を描いた似顔絵が収められています。
この一連の画の変化で、今まで花瓶に活けられていた白百合が「キレイ事としてのレーナの心情」であった事、スピアヘッド戦隊との交流の中で、本当の意味で86を人間として認めるようになった事を描いています。
これ以降の話数でもこの花瓶とガラスケースは何度もアップになります。
ガラスケースの中の似顔絵=戦死者の数は日を追うごとに増えていき、スピアヘッド戦隊の絶望的な状況を示しています。
ですが、花瓶の花が白百合=供花になる事は以降二度とありません。
花は愛でるものであり、二度と死者への罪悪感を雪ぐものとして扱わないというレーナの変化(成長)をしつこいくらい描いていますね。
日本軍式最敬礼
次はシーズン1終盤(11話「行くよ」)より、レーナがスピアヘッド戦隊の宿舎をようやく訪れるシーンです。
ここにはもうシン達はいないのですが、ずっとスピアヘッド戦隊の整備班長を務め、最後の出撃を見送った人物であるアルドレヒト中尉と話をします。
シン達が過ごしていた隊舎へ向かうレーナをアルドレヒトは呼び止め、自分がここにいる理由を話します。
アルドレヒトの話を彼の背中越しに聞いていた彼女は、聞き終えた後、わざわざ帽子を脱いで最敬礼をします。
帽子を脱いで、
明らかに上体を45度傾けているので最敬礼です。
このように帽子を脱いでお辞儀をする最敬礼というのは、日本軍の形式です。
フランスをモデルにしているサンマグノリア共和国では帽子の有無に関わらず挙手敬礼をする、というのが設定上自然なはずで、日本人のように帽子を取ってお辞儀というのは、ヨーロッパ軍人の挙動としてはむしろ不自然です。
ですがこれは明らかに演出家が意図を持って、わざとこの表現にしています。
挙手敬礼では軍律に基づいた儀礼的な意味しか感じませんし、そもそもアルバの高級士官(この時レーナは降格されていたとは言え大尉)であり、本来は戦地に降り立つ必要すら一切無い彼女がいち整備班長に一方的に敬礼をする絵面にしてしまったら「ん?なんだ今の?」と違和感ありまくりになったはずです。
このシーンはアルドレヒトの告白した内容に対し、レーナが「同じ軍人」として深い感謝と敬意の念を抱いたことを表現する必要があります。
なので日本軍の最敬礼という所作を敢えて採用したんだと思われます。
これ原作ではどうなってるんだろう、と気になったのですが、
「はい。・・・・・・ありがとうございます」
ぺこりとアルドレヒトに頭を下げて、横を抜けて隊舎に入る。
引用出典元:安里アサト『86―エイティシックス―』(1)
この2行で終わっちゃってます。
「ぺこりと頭を下げて」ではレーナの「ありがとうございます」が向けられた対象や重さがイマイチ伝わりにくく、ともすると「教えてくれてありがとね」ぐらいの随分軽い意味しか無いようにも読めてしまいますが、アニメ版の映像を観ると非常に明白になっていますね。
軍隊や戦争を描いた作品において敬礼と言うのは重要な要素で、私が思うにこれをキチンと描いているものにハズレはありません。
86アニメ版は敬礼ひとつに対しても非常に丁寧に意味を含めているのが分かります。
実は危ういシンの精神状態
シンは過去の事情及び自身の特殊能力から「アンダーテイカー(葬儀屋)」というコードネーム通りの、片足以上棺桶に突っ込んでいるかのような死の匂いをまとっている雰囲気のキャラクターです。
冷酷であるとか、邪悪さが滲んでいるとかは一切無いんですが、生者よりは死者に近い、なんかアッチの世界の住人っぽいです。
もちろんそれには理由があり、シンはある一つの願いだけを拠り所にしてようやく生きている、という状態でした。
シーズン1の終盤でその願いが達成され、シンにとっては思い残す事も無くなり、もはや達観して死地へ向かう事になるスピアヘッド戦隊の「最後に残った生き残り5人」。
彼らは線路のさらに先、前線を遥かに奥へ越えたギアーデ帝国領へ向かいます。
これは人間がレギオンによって殲滅され、美しい自然と僅かな軍事拠点廃墟のみが残されたギアーデ帝国領での野営シーンです(10話「ありがとう」)。
生き残り5人の中の一人、妹キャラであるクレナが紅葉の葉っぱをくるくる指で回しています。
シンはそんなクレナを穏やかな目で眺めています。
次のシーンでフェードアウトの直前、紅葉の葉をくるくる回す手が止まり、葉っぱが静止画でアップで映されます。
紅葉の5葉は彼ら5人を表していますが、真ん中の葉は隊長であるシンですね。
このシンを表す葉にだけ虫食いの穴が開いて欠けています。
これは今までそれだけを願いとして生きていた目標を達成してしまい、いよいよ生者でいる意味を失ったシンの状態を暗示しています。
目標を失ったシンですが、以前は「その目標に囚われていた」とも言えます。
達成した事で呪縛から解放され、共に生き残った4人からは「表情が柔らかくなった」「良く眠るようになった」「笑うようになった」と一見良い方向へ変化したように受け取られています。
ですが1番シンと付き合いの長い副長のライデンはシンの変化を手放しに良いとは感じていません。
それがこのシーンです。
以前なら絶対しなかったような顔で屈託なく笑うシンを見て、
ライデンは最初は微笑みながら、
次の瞬間には険しい表情になります。
ほんの数秒のカットなんですが、ライデンはシンの心が壊れかけている事に気付いているという表現ですね。
そしてその晩のシーン。
先日クレナが弄っていた紅葉が床に落ちていますが、シンを表す葉だけねじれて腐りかけているのが描かれています。
もちろん現象としては「虫に食われた葉だけが先に腐った」というだけですが、わざわざ画にして何度もアップで映している以上、明らかにシンの精神状態を表す演出です。
この翌朝、シンは早朝に起き出して一人だけで部隊を後にしてしまうんですね。
可能な限りネタバレを避けつつ、幾つか印象的だったシーンを紹介してみました。
どうでしょう、なかなか見応えのある映像化じゃないでしょうか。
ホロコーストという際どい題材とヒロインの成長
この86という作品は第二次大戦をモデルにした「架空戦記ライトノベル」ですが、作中で描かれる「86」という人種隔離政策と絶滅主義はナチスドイツの行ったホロコーストをなぞっています。
ヒロインのレーナは人種的にはアルバの、しかもかなり上流な血筋の出身なので立場としてはシン達を迫害している側にいます。
このホロコーストという題材は、どんなジャンルにおいても特に扱いがデリケートなものの一つです。
とは言え、86の世界では先にも書いたように、作中でこの迫害を行う国は「サンマグノリア共和国=フランス」に置き換えられています。
ギアーデ帝国=ドイツ、サンマグノリア共和国=フランスですね。
ギアーデ帝国は周辺国に対し一斉に宣戦布告したと言っていますし、シーズン2で登場した帝国残党の軍服のデザインを見てもドイツ軍なのは明白です。
サンマグノリア共和国の5色旗や、ホリゾンブルーとまでいかないまでもブルーの軍服、露骨な貴族階級、貴族意識の描写はおフランスそのものです。
ヒロインを貴族令嬢にして被迫害民であるヒーローと対比させたいという意図もあったのかも知れませんが、第二次世界大戦では宣戦布告後9ヶ月でパリを占領されて降伏したヘッポコおフランス軍をホロコーストの主犯に据えたのは「88」をペンネームにしている作者からすると当然の帰着なのかも知れません。
作中で迫害の加害者であるサンマグノリア共和国のアルバ連中はそのまま第二次大戦時のアーリア人種至上主義をなぞっており、軍は86を「人型の豚」と蔑んでジャガーノートに乗せ「部隊が全滅するまで戦わせる」という戦略を取っています。
全滅するまで、という戦略の背景には「86は絶滅すべし」というはっきりした政治的意図があり、軍上層部のセリフとしても描かれています。
当然これは戦略とは言えず、明らかに民族絶滅政策です。
もちろん作中では、86がいきなりチクロンBで大量に虐殺されるといった表現は一切されていません。
アニメに出てくる86は「86で構成された部隊」の少年兵たちだけであり、彼らが死ぬのはあくまで「帝国のレギオン」との戦闘によってです。
ですが普通に考えてアルバ以外の人種(=86)の全員がジャガーノートに乗って戦う兵士である、というのは考えられません。
ジャガーノートって一人乗りの戦車ですからね。
またレーナのセリフに「昔見たガス室」という一言がありました。
つまりこれは遠回しに、この物語は虐殺を免れて前線に兵士として駆り出されている一画を描いているに過ぎないと言っているんでしょう。
ゾンダーコマンドとパラレイド
レーナはアルバの中でも上位の貴族階級出身ですが、同じく軍人だった父親が数少ない人道者であった影響と、幼少時に戦場で86に命を救われた経験から、86を「人型の豚」ではなく自分たちと同じ人間だと理解している、という様子を見せます。
彼女は物語の最初から「ハンドラー」として前線の86部隊を管制する仕事についています。
人間として対等な立場であるならば、ハンドラーと86部隊は同じ軍の上官と部下であり、ハンドラーは司令部とは言っても少なくとも同じ戦場にはいるはずです。
ですがこの作品ではハンドラーは前線から最も遠く、最も安全なサンマグノリア共和国の中心部からボイスチャットで部隊に情報を伝えるだけです。
部隊員との交流はパラレイドによるボイスチャットと報告書だけで、彼らの顔写真どころか本名すら知りません。
迫害され、無理やり戦わされている86達も、安全地帯から死地にいる自分たちに指示を下すハンドラーの事を同じ人間としては認めていません。
アルバが86を「人型の豚」と呼んでいるのと同様に、86の部隊員もハンドラーの事を「白豚」と呼んでいます。
このような関係でも前線の86部隊をアルバ側で管制(監視)する必要がある、結局は「わざと死地に赴かせて、全滅しろと命令する必要がある」という構図からドラマが生まれています。
作中では「86には墓も慰霊碑も無い」「人事ファイルに部隊員の本名が無いのは、ハンドラーが86を人として認識しないよう意図されている」というセリフが出てきます。
第二次大戦中の強制収容所でチクロンBが使われたのは、「銃殺だと執行する兵士の精神的負担が大きい」事が理由の一つだったと言われています。
また、チクロンBを投入するのはドイツ兵でしたが、列車で搬送されてきた囚人を騙して「処理場」に誘導する、死体の運搬・焼却・灰の処理、処理場の清掃といった、精神的にも肉体的にも過酷な作業は全て囚人の中から選ばれたゾンダーコマンドと呼ばれるグループに行わせていました。
囚人の数に対してドイツ兵の割合が少ない、という理由もあるかと思いますが、いくら相手の事を人間とは思わないほど蔑んでいたとしても精神的苦痛をゼロにできる所業では無かった、という事でしょう。
レーナは、自分が担当している86部隊と積極的にパラレイドで交流を持ち、指揮管制も精力的に行って「自分は他のアルバと違い、彼らを同じ人間として認めている」アピールをしますが、結局のところ第二次大戦においてはせいぜい「強制収容所でガス室に直接チクロンBを投入するドイツ兵」であり、86とは完全に対立した立場にいる事に気づいていません。
本当に過酷な作業を行っていたゾンダーコマンドとは全く違いますし「聴覚のみに制限されたパラレイド」と言うゾンダーコマンドに相当するシステムで、目を背けたくなる現実をそもそも見なくて済む状況にいます。
おフランスのお貴族令嬢が「精神衛生上、人を人として認識しないように整えられたシステムに守られている」事に気づいていないところから物語が始まるのがなかなか上手いと思います。
ゾンダーコマンドを描いた作品としては「サウルの息子」「灰の記憶」という映画がおススメです。
特に「サウルの息子」は僅か数ヶ月処刑が延びるという希望のためだけに地獄絵図の中で働かされているゾンダーコマンドの陥った「狂気」が苛烈に映像化されており、非常に見ごたえがあります。
劇伴も素晴らしい
86アニメ版の音楽は澤野弘之氏が担当しており、この方はアニメファンには言わずと知れた大御所アーティストですね。
私も「キルラキル」や「進撃の巨人」のサウンドトラックは購入しました。
86においてはシーズン1のエンディングテーマ「Avid」「Hands Up to the Sky」を作曲されていますが、私は特に「Avid」が好きです。
BGMの方は、澤野氏とKOHTA YAMAMOTO氏の共同制作との事ですが、サウンドトラックを購入して聴いたところ、86アニメ版の劇中で印象に残っているものは殆どKOHTA YAMAMOTO氏の作曲によるものでした。
BGMも作品で描かれる心情と非常にマッチしており、スピアヘッド戦隊の最後の生き残り5人がレーナを置いたままパラレイド通信圏外へ去っていくシーンで流れるHear my voiceとか何度聞いても泣けます。
このシーンは原作のレーナの必死な心情を描いた文章も素晴らしいのですが、アニメ版はレーナの気持ちを文章で表現できないにも関わらず、画と声優の演技、そして劇伴で完璧に映像化しています。
劇中で印象的だったBGMは全てサントラに収録されているので、この作品を気に入った方は購入して全く損は無いと思いますね。
シーズン2の制作は難航しているようだが…
2022年2月現在、シーズン2にあたる21話までAmazon Prime Videoでは公開されています。
制作が難航しており、残りの話数の放映は2022年3月以降になるとのアナウンスがされました。
正直、シーズン2は見ていても作画が苦しそうな事情が窺えたり、怪しい気配はしていました。
また、シーズン2ではレーナがほぼ退場状態で、スピアヘッド戦隊の生き残り5名側の話が中心になっています。
シーズン1でのアルバのレーナとシン達86の対比が非常に良かったという事もあり、今のところ個人的にはシーズン1に比べるとシーズン2はドラマ面でかなりパワーダウンしているという印象です。
アハトアハトをペンネームにしている作者だけに帝国(=ドイツ)側残党の人達がイイ人過ぎてシーズン1のような苛烈なドラマが生まれづらいのが原因の一端かも知れません。
が、ドイツと言えば列車砲だよねという、戦闘シーンでは萌える展開もありますし、幼女皇女殿下が可愛いですね。
なんにせよ私は原作2巻は読んでいないので、アニメの残りの話数に期待して放映再開を心待ちにしています。